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現在の世の中には 「愛しています」「愛がない」 愛という言葉が溢れかえっています。

仏教では」 というと 、二つの意味で考えられます 。

渇愛」と「慈愛

」ならば何でもいいというわけ ではないのです…

・ 「渇愛」とは 、愛という名の 自己中心的 な煩悩

  喉が渇くと、水を求めるように、自分勝手に好きと嫌いを描き出す

 「ああなりたい」「こうしてほしい」などと、常に相手に渇望し続け

 これではまるで執着と同じ意味です。

愛とは言ってもいつも自分が中心であり、愛という名の煩悩だといえます。

・ 「慈愛」とは 、悟りの慈悲

いつくしむ」と訓むように、相手を思いやり大切にする愛情のことです

こちらの場合はどこまでも相手が中心なので、悟りの慈悲になります。

 私達は、 ほとんどが渇愛なのです⤵

相手に何かしてあげても

それが別に

誉めてもらうつもりで

した理由ではなくても

しだいに心には打算がちらつきます

そして相手が知らん顔をしているとなると

お礼の二回もない

と憤慨する始末です。

たとひ清心を発せども

なほ水に画くがごとし

清らかな心を発しても、水に絵を画くように、画いた端から消えていく

私たちは悲しいけれども、こうした生き方しかできない生き物なのです。

 泣きながらの告白

先生。……さっき私の看病のことを言っていただきましたけど、本当に清らかな気持ちでお義母さんのことを思って動いてたんは、せいぜい始めの二ヵ月くらいなんです。

あとはだんだんこっちもしんどくなってきて、私はいつも「お義母さん、いつまで生きるんかなあ」と思ってばっかりでした。

 清らかな思いではしめた看病が、やがてお義母さんの死を願うようになる。これは言葉を換えれば、この女性の慈愛は、最終的に渇愛へと変貌をとげてしまったといえるのではないでしょうか。

しかし私たちはこの話を聞いて、この女性をひどい人だと非難することができるでしょうか。

できないはずです

なぜならこの話には人間である以上、誰も否定できない真実があるからです

我々にだって清らかな思いは確かにあります。

しかしそれはこの女性のようにかならず渇愛へと変貌を遂げていきます

では、どういった時にその気持ちは変貌を遂げ始めるのでしょうか

それは自分の体力の限界です

自分の体力が限界に達したとき

隠しきれない自己愛が

相手を思う清らかな気持ちを

いとも簡単に塗りつぶしてしまうのです。

阿弥陀如来

私か優しい気持ちの時でも

誰かに怒っている時でも

誰かに親切な時でも

意地悪な時でも

笑っている時でも

泣いている時でも

どんな時であっても

私に寄り添い

決して見捨てない

阿弥陀仏さまだということです。

どうしても「渇愛」を消せずに苦しむ者に、そのまま救うという

救いを与えていくださる完全なる「慈愛」にみちた他力の教えだったのでした。

-てふてふ通信, 新秘

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